「琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならない」

 『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』は、時の思潮の流行が乱舞するではなく、基地と経済、うちなーんちゅ対やまとぅんちゅの二項対立が再生産されるというのでもなく、生々しい沖縄の実像が迫ってくる。それに関する限り、沖縄言説を覆うという「過剰な空虚」からは一線を画した中味だ。

 その生々しさは、「歴史は夜、作られる」として、その「夜」が語られていることから来るようだ。そして「夜」語られることだけあって、池澤の言う通り、居酒屋で聞くような話だ。居酒屋の夜の話は、過剰な記号が飛び交わない代わりに、虚実が織り交ぜられてくる。佐野の話が眉唾ものだと言うのではない。佐野の浴びる言葉が虚実混淆になるしかない。そういうことだ。

 なにか、久しぶりに大柄な線の太い人物像を読んだ気がする。ある意味で、昭和の読み物を読んでいるような。言い換えれば、切った張ったの、この手の読み物を作ろうとすれば、いまでは沖縄を舞台に設定するほかなくなったということかもしれない。

 しかし、ぼくたちは紛れもなく、昭和以降の世界に生きている。

 沖縄をめぐる言説で、すっかり色槌せてしまったのは、〝沖縄独立論〟である。
 左派沖縄耽溺者のパイオニアともいうべき竹中労が、政府なき国家と党派なき議会と官僚なき行政を、すなわち幻の人民共和国を琉球弧の上に夢想して、冒頭に挙げたように情熱的かつ純情に語ったのは、沖縄の本土復帰一カ月の一九七二(昭和四十七)年四月である。
 それから三十有余年。沖縄人は本土人の慣習に完全に同化した。いま沖縄一の盛り場の那覇・国際通りを歩いても、浅黒

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7.小説、批評はどこに
2008/10/24



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