粟粥の呪力

 昨年出版された『しまぬゆ』は、薩摩の侵略に際し、沖永良部の島人が「大量の粟粥を炊き、もうもうと湯気の立ち上る鍋を渚から村口まで並べて」待ったが、島津軍はそれを食料にしてしまい、以来、その地が「馬鹿島尻」と呼ばれた伝承を取り上げて、「伝承のような事実はなかったろう」と結論していましたが、ぼくはそれは事実と見なして構わないものであり、沖永良部は闘わなかったのではなく闘ったのだと書いたことがありました。

 ※「沖永良部の抵抗」

 松下さんによれば、同様のことは徳之島でもあったことが分かります。

尚真時代の神女組織の確立は政教の分離をはかり、宗教に対する政治の優位化を目的としたものだというが、その神女組織自体が(中略)政治に密着しており、根神・ノロ・聞得大君などの神女は「おなり神」の霊力を通じて、根人・按司・国王などの政治を補佐する存在であったともいう。琉球王朝の政治の世界でもそうであるから、まして奄美の島々の場合呪術の力が支配的であっても不思議ではない。

大山麟五郎によると、奄美の場合栗の穀霊による悪霊払いの呪術が信じられていたのだという。「琉球入記」で徳之島掟兄弟の兄が「家ごとに粥をたざらかし、大和人の膝を火傷させるために坂や道に流せ」と命じた粟粥は、そのような霊力をもつものであった。名瀬間切の伊津部村にある拝山はうしろの尾根に堀切があり、それは敵を直接防禦するたあのものというより、ノロが粟粥を注ぐ儀式を行なった所であって、悪霊が部落に侵入するのを防ぐものだったという。このような栗の穀霊に対するアニミズムは、中尾佐助が照葉樹林の農耕文化を分類した第四段階、すなわち雑穀栽培の開始以来、島の人たちをとらえていたものであろう。焼畑の灰の中から芽をふき出してくる菜に対して古代人が畏怖の念をもつことは別に奄美だけのことではなかったが、農耕文化の発達が充分でない南の島々で、「按司世」までそのような素朴なアニミズムが生き続けていても当然であろう。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

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27.『近世奄美の支配と社会』
2008/05/01



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