琉球と大和の二重意識奄美とは何か。そのことをずっと考えてきました。
ぼくは、奄美の困難を、二重の疎外と考えてきましたが、それは薩摩の琉球侵攻以降に始まったものではなく、大和朝廷勢力の南下の折に胚胎され、薩摩の琉球侵攻以降に完成したと捉え直しました。
二重の疎外は、現在も奄美の困難として生きていると思えますが、いま、困難をそれによって生きる奄美人の所与の条件だと見なしてみます。そう見なすと、奄美とは琉球と大和との交流拠点であると素描することができます。
大和が南下したとき、琉球弧のなかでその交流拠点となったのはどこよりも奄美でした。交流は局所的であったり断続的であったりのゆるやかなものでした。ついで王国としての琉球が北上したときに、交流は希薄化したかもしれません。しかし、それは薩摩藩の琉球侵攻以降にさらに本格化しました。これらの交流は、特に薩摩としての大和が覆いかぶさった期間、激しい痛みを伴うものでしたが、奄美の島人はその美質を失わず、よく生きてきました。
いまも、琉球か大和か、それが問われる場面では、奄美はどちらにするのか、まるで二者択一の選択肢として現れるので、そのアイデンティティは浮遊せざるをえません。その浮遊感は、自信の無さに結びついたり、優しさとして表出されたりしてきました。また、奄美は大和であるという主張も、奄美は琉球であるという主張も生んできました。これは、共同観念に成長していない以上、他者の見なしに対する反論という形を取らざるをえませんでした。
奄美とは何か。それは、琉球と大和の二重意識のことです。
奄美は、亜熱帯ヤポネシアの北部地域に位置し、高島から低島への幅と、森から珊瑚礁までの幅を持っています。そしてその幅は、中南部琉球弧へと反復されます。そして、この振幅のグラデーションは、意識のなかでは、琉球と大和の二重意識のグラデーションとして表出されてきました。この二重意識は、大和にもない琉球にもない奄美固有のスタイルをなしています。
奄美は、この二重意識を基盤に、琉球と大和の交流拠点を担ってきたのです。
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