やっとぅかっとぅこの日曜に、父が他界した。突然の旅立ちだった。
囲碁狂の父が、囲碁を楽しむその最中に、
隣の人にもたれかかるように倒れ、
そのまま消え入るように去ってしまった。
新聞広告には「急逝」という言葉を提案されたけれど、
「永眠」にしてもらった。
闘病生活があったわけではないから「急逝」には違いないのだけれど、
ぼくにはどこか、寿命を全うしたと言ってもよいような気がした。
七十三歳という年齢は、寿命というには早すぎるかもしれない。
けれど、父はどこかはかなさを漂わせていて、
ぼくは小さい頃から、いたわるべき人という想いがあった。
ぼくはいわゆる反抗期にも父に口答えしたことがない。
そういう気持ちになったことがない。
そうするのは、父には酷いことをするように感じていたのだと思う。
もちろん、ぼくが反抗期不要のできた人であったわけでない。
教師への反抗は激しく、いまでも折り合いがついていないほどだ。
おまけに毒舌が得意ときている。
反抗しなかったのは、ひとえに、父の人柄のなせる業だ。
父は身を削るように、子どもたちを育て、
退職後を楽しみ、命、尽きた。
どの親にしても子育ては身を削るようにあるには違いないけれど、
もてる生命力からすれば、父は人一倍だったと思う。
やっとぅかっとぅ。
これは、父の口癖、というより、決め台詞だった。
「やっとかっと」の与論方言で、
「やっとかっと」を三母音言語世界に引き込んだ発音だ。
父が挨拶するとき、
How are you? I'm fine.
の定型は成り立たず、
「元気?」と聞かれれば、「やっとかっと」と答えるのだった。
お袋は、「そんな言い方しないで」とよく言っていたが、
親父にすれば、率直なぎりぎりの言葉だったと思う。
ぼくは実のところ、まだ実感できていないのだけれど、
父の他界は、無条件の理解者の喪失なのだと思う。
父よ、安らかにあれ。
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