ひきこもりの視点から観た、黒沢清の「回路」

「CURE」という映画を観て僕は黒沢清を知った。衝撃の認識とともに。意識した。「回路」はその黒沢監督の最新作だというので初日に劇場まで足を運んだのだ。感覚としては10年ひと昔前、のことのような気がするのだけれども。調べてみると2001年公開、とある。


 テレビ・雑誌等で大々的な宣伝をしていたような記憶がある。主演は加藤晴彦だし、主題歌はcoccoの「羽根」だし。どこかとタイアップしていたのだろうか(それでも映画館の中はガラガラ、観客は僕を含めて4、5人しかいなかった。みんなどこに消えちゃったのさ? つまり映画館の中まで「回路」だったわけで、‥‥それも怖かった)。


              ☆


 以下ネタバレということになるのだが、これはインターネットの中に突然謎の幽霊サイトが出来てしまい、そのサイトにアクセスして幽霊の素顔を見てしまった人間が続々と消えてしまって、最後には地上から人間がいなくなってしまう、‥‥そんな話だ。
 まだそんな言葉もなかった時代、「引き篭もり」や「ニート」とも違うのだが、それを通して現代の、社会の中に生きながら葬られている人間、について語っている。
 それも相当に幼稚な、お寒い言葉で。


 当然のことながら観客は、「インターネット(幽霊)に魂を奪われてたまるか、オレは生きるぞ!」というイキのいい主役、加藤晴彦に自己投影して映画を観ることになる。


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 この映画のすごいところは、その加藤晴彦 = 観客を、インターネットも知らなければもちろんパソコンのキーボートさえ叩いたことのない「大馬鹿」と設定し、「馬鹿にはセリフで説明しなきゃわからないんだから」とばかり、本来であれば暗示させるに留めるべき映画の大テーマを、全て口で語らせている点にある。


 オマエは馬鹿だからなぁ、ここまで言わないとわかんないんだろうけどさ。


 登場人物のほぼ全員がそんな調子で加藤 = 観客に人生の無意味さや「永遠の孤独」について語るのだ。
 話が進むにつれ、「生きる気力を失ってはいけない」と一本調子で力説する加藤晴彦が、本物の馬鹿に見えてくるという仕掛けだ。


 そして、‥‥その「馬鹿」に馬鹿と言われる馬鹿は、僕たちなのである。


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2006/01/29




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