ニルヴァーナ以降というターム94年のことだが、僕は書店で、四角い黒縁のメガネをかけ、ボーダーのシャツを着た若い男が、バロウズの『裸のランチ』を立ち読みしながら笑い転げているのを目撃した。
ひとりの男‥‥痩せ衰え、体中の皮膚が乾いた木材のように硬くなり、針を刺す場所もなくなってついには眼球に麻薬を注射するようになったジャンキーと、それを読んで、笑っていたあの男は、実は同一人物なのだと、僕は思っていた。
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その直後に、カート・コバーンが死んで、音楽の専門誌だけではなく読売や朝日のような大新聞までもが伝えるニュースになったが確かに、それは「事件」だった。
セックス・ピストルズのヴォーカルのやつが、その10年以上前に、ナイーブな音楽誌の見出しに掲げられたのと同じセリフをいったあとも、ベースのシドが死んだときも、あれは、アイコンに昇格した奏でる側がまたひとり死んだというだけの、「死」だったと思う。
いや、僕は知らない、リアルタイムで彼らと接していたわけではないがそれでも、なのだ、ある年代以上の人々にとってのレノン、または、ある特定の趣味嗜好の持ち主にとってのシド・ヴィシャスとは違い、ニルヴァーナのカートは、仰ぎ見られることを自ら拒否し、僕たちと同一の目線で生きる、孤独な黒メガネの青年だった。
『裸のランチ』を10回も読み返した僕と、結局買わなかったあの笑い男と、目にまで麻薬を打つジャンキーと、カートは、完全な同一人物だった。カートのおかげだった。その孤独のおかげで僕たちはひとつになれたのだ。
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ロックとは、価値観の転倒である。そこでは、汚い物が美しく、病んでいる者が正しく、歪んで、とことんまでひねくれた思いこそが、何よりも強い叫びとなって、世界中の人の耳に届く。
敗者は勝者になり、すべてはすべてと繋がる。
グランジとは、ニルヴァーナとはカート・コバーンとは、僕が経験した、もっとも激しい逆転であり、密な接近だった。あれは、僕だった。180度に逆転した僕だった。0度と360度だった。そんな一体感を持てたのは、彼が最初だった。
それゆえにその死は、自分自身の重要な一部が死んだのと同じ意味を持ち、あのとき、初めて本当にロックは死に、最後にロックは死に、それ以降の季節で、僕は、一体感を持って何かと接するということができなくなったのである。
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