二つの硫黄島映画

 右も左も、老いも若きも、日本もアメリカも、なぜか絶賛一辺倒の二本の硫黄島映画。実際スピルバーグをプロデューサーに迎えて「プライベートライアン」の迫真性を導入しつつ、ニューシネマのようなクールネスを湛えた落ち着き払った重厚な人間描写で映画的感動を盛り上げるイーストウッドの円熟しきった演出手腕はまさにゴリゴリの王道ぶり。まあ人間そのものが映画の権化と言っていい風格がございますな。二本とも勿論面白いのですが私のお気に入りはアメリカから見た硫黄島「父親たちの星条旗」。メデイアが祭り上げたヒーローが好戦気分の動員に利用され辿る悲劇、戦時下のメデイアコントロールと言う今日的なテーマの原点ともいうべき事件をあくまで人間に焦点して描く映像文体の自信にあふれた筆致の鋭いこと。岩山を上るとフットボールスタジアムだったというような、力強い映画的トリックの豪腕ぶりの眩しさときたら無い。「ブラッドワーク」でも白黒に画面が切り替わると言う単純なギミックに完璧な映画的興奮を載せていたイーストウッド監督、映像作りは単なるテクニックでは無いという快感原則を見せ付ける。地獄の戦場で戦った仲間への思いがあるがゆえに分裂していく男たち。そしてそんな個人を利用する国家と言う非情なシステム。「ダーティハリー」ではフラワームーブメントの渦中のサンフランシスコに暴力刑事を降臨させると言うカウンター振りを見せ付けたイーストウッドが戦時下のアメリカでも変わらず個人的なこだわりを映画にぶつける姿に、ハリウッド映画の底力を感じずにおれません。一方の日本から見た硫黄島「硫黄島からの手紙」もやはり凄い。何が凄いって日本人兵士の描写が説得力たっぷり。近頃やたらと「国民性」や「国益」といった単語で世界を分断するような論が跋扈しておりますが、兵士の運命に国境は無いというイーストウッドの巨大な人間観の前では国籍の違いも問題ナシ。無謀な精神主義の渦中であくまで理論的に効果的な作戦を模索する栗林中将の姿勢をなんでアメリカ人のイーストウッドがここまで思い入れたっぷりに描けるのか。アメリカを知る立場から勝ち筋を探す職業軍人の栗林やバロン西に、無謀な精神主義者の中村獅童や徴兵で来たくも無い戦場に連れてこられたパン屋の二宮君を対置し日本軍内部の事情を描いていく作劇も見事の一語。身の毛もよだつ自決シーンや心優しい憲兵のエピソードなどは本来日本映画が描くべき素材でありましょう。この二本の硫黄島映画はいわゆるジャーナリズム的な「両論併記」から発した企画で無くイーストウッドの人間への好奇心が先にたった自然な選択の結果でありましょう。戦争を政治利用しようとする党派的な「戦争論」を超えて、職業軍人の責任感と歩兵の生へのこだわり両方をともに人間の生き方の問題に還元して等価に扱う姿勢こそ映画的な魂。誰もが認めるわけである。やっぱりアメリカ映画は

(1/2) Next»

May 2, 2007




Comments(0)|コメントを書く

List all categories
Recent Comments
About

このブログを友達に教える

コミュニティ | 有名人・芸能人ブログ | ケータイ占い | ケータイ小説 | 掲示板


画面TOP↑


powered by cocolog