ニート論争が浮き彫りにしたモノ先日ニートについての記事を書いてから、いくつかニート関連のblog等を漁ってみました。
ニート現象をそもそも問題とはしていない考察も多かったのが印象的だったのですが、面白いのはニート現象を問題であるとして語っている考察は皆一様にまんじりともしない感覚を抱えたまま、然るべき結論には至りきれていないというところでしょうか。手詰まり感、とでもいうような。
そもそも何故ニートという言葉が持ち上げられ問題視され買い叩かれるに至ったのでしょうか。
現実には働きたくても働けない――いわゆる失業者が数十万人単位で存在しているにも関わらず、働く必要もその気もない者の存在を問題視するのは滑稽だと思うのですがどうでしょう。
ニート現象が問題視された理由。
それはつまるところ個人の自由を前提とした資本主義の国を生きる私たちの中に鬱屈としたまま存在している、ある種の共産的思想に起因していると思われます。
人は皆生産的でなければならない――あるいは労働しなければならないといった共産的思想は、俗っぽい言い方をすれば結局のところ「俺が必死で働いてるのに何でおまえは働かない」ということでしかありません。
そう、今回の一連のニート論争で最も注目すべきは実にこの点なのです。
「俺が必死で働いてるのに何でおまえは働かない」
生きるために働かなければならない人と働かなくてもやっていける人が存在しているという事実に対しての、恨めしさとも憤りともつかない感覚こそが、今回の論争の核であると思います。
それは私たちが、幼い頃に教え込まれた「平等」という魔法の言葉の下に、これまでずっと誤魔化し続けてきたものです。同じ国を生きる者同士の間に厳然とした格差が存在するという現実。資本主義において生活レベルでの格差が生まれるのは当然ですが、その事実から目を背け続けてきた部分が私たちには少なからずあるのではないでしょうか。
ニート現象とは結局のところ資本主義において平等などありえないのだ、ということを証明する材料にこそなれど、それそのものが問題視されるのは的外れだという気がします。
本当に目を向けなければならないのは「働きたくても働けない人」の存在であって、そこを解決に導く社会体制を築き上げることが出来るかという点にこそ、この国がこれから資本主義国家として生き残っていけるかどうかが掛かっていると思います。この点についてはひきこもりやらニートという言葉が出てくる以前から、もうずっと問題視され続けてきたはずで、しかし未だ解決には至ってない命題です。
この問題が何らかの解決策によって希望的な結末に至らないようであれば、もはや共産体制に走るしか道は残されていないのではな
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