自分 という存在ハンドルネーム 「GensouMusa」
楽器奏者として 「Yoshiharu」
日本国籍の 「姓名」
これは全て自分を限定する言葉。
その呼びかけに対し、問いかけに対し、それが自分にむけられたモノだと限定できる時点で、同一性としての自分がそこに在る。
私は 「Yoshiharu」 です。
と言った相手にとっての私は、「Yoshiharu」である。
自分が自分を決めるのだ。
生まれた時に、登録される名前、
この与えられた名前を、 自分であると認識できた時点で
自分は ソレ となる。
誰かにニックネームを付けられたとしても、ソレ を受け入れるかどうかは自分次第。
受け入れてこそ ソレ となる。
与えられたモノを受け取らざるを得ない場合、ソレ が自分と認識しなくてはならない場合でも同じ。ソレ に反応した時点で、 ソレ となる。
自分自身は、自分で決めるもの。
決めなくても、知っているはずだ。
自分の名前を言えるのであれば、だ。
他人が決めた事を受け入れられなければ、
ソレ にはならない。
自意識だから、無視すればすむ。
そういう次元の問題でもあると思っている。
生まれた理由、、理由なんてない。
ただ単に、人間の性交によって人間の要素を内包され、ここに存在することになっただけ。
ただ、それだけだ。
生きてる理由、、理由なんてない。
気がついていたら、生きていた。そして、生きている事が自分にとって当たり前な事になっていた。
だた、それだけだ。
考えなくても、既に答えは持っている。
「本当にしたい事はなに?」
今は、目的なんて奇麗な意識ではなくて、衝動にちかいもので動いている。自分自身に問いかけても、気分で答えは変わる。状況で行動が変わる。自分を動かす衝動、興味には理由をつけようとも、うさん区臭いものにしかならない。
本当なんて無い。
変化しすぎるために、絞り込めない。
「そうしたいと思ったから」
そんな抽象的な答えが近い。
本当にしたい事は、その時の気分次第だから、「わからない。」本当っていう程、限定した形を持っていない。
人間は、不安定な存在。
その中にあっても、俺は特に不安定な存在だ。
俺の行動は、「気持ち」 それだけだから。
それでも、不安定
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