家康の東部戦線(4) 武田軍に侵掠される遠江

 元亀元年(一五七〇)九月、家康は三河の岡崎城を嫡子信康に譲り、遠江に本拠地を移した。遠江の支配強化だけでなく、氏真と約した駿河侵攻をも見据えた移転である。もっとも、家康には本心から氏真のために駿河を奪取しようという気はない。
 はじめは遠江の中心に近い見付に築城を開始したが、水利が悪いことを懸念し、引馬城の改築を決定、竣工後に浜松と名を改めた。
 この年、家康は初めて上洛し、金が崎の戦いや姉川の戦いなど、畿内で信長と行動を共にすることが多かったが、駿河を確保して、さらに勢力を遠江へ伸張しようとする信玄の脅威に直面していた。
 そこで家康は帰国後、越後の上杉謙信と盟約を結んだ。十月八日のことである。信玄の脅威に対抗するためであったが、信玄と同盟していた信長との関係にも影響を与えかねない事態でもあった。その頃はまだ、家康が信長に気兼ねすることなく、独自の判断で外交することができたということでもある。
 信玄は徳川・上杉同盟を知ると、ただちに家康と断交し、元亀二年(一五七一)、二万の軍勢をもって遠江へ侵攻した。二月二十四日に大井川を渡り、小山城を奪取、滝堺城を築き、遠江侵攻の橋頭堡を確保すると、その橋頭堡を一気に西方へ拡大すべく、高天神城へ軍勢を進めた。東海道筋はすでに諏訪原城で抑えていたことから、今度は海岸沿いのルートを制圧し、製塩拠点だった相良を確保しようというものであった。
 また、これは掛川孤立化の一環だったともいえよう。先に家康が攻略に苦労していたことからも明らかなように、掛川城は強攻で容易に落ちる城ではなかった。高天神城を攻略すれば、掛川城の東面と南面は武田勢に直面し、徳川方は掛川城に対し西方の見付方面からしか連絡できないことになる。
 武田軍を迎え撃ったのは、小笠原長忠だった。信州小笠原家の血を引く名族で今川家に仕えていたが、今川滅亡後は家康の麾下にあり、二〇〇〇(一〇〇〇とも)の兵で高天神城を守っていた。
 三月五日、遠江に出陣した信玄は塩買坂に陣を張り、重臣の内藤昌豊に命じて高天神城を攻めたが、長忠はよく防戦に努め、急崖に囲まれたこの要害を落とすことはできなかった。
 高天神城の防備のほどを確認した信玄は、攻略に執着することなく兵を引いた。いわゆる威力偵察である。
 先年の関東出陣のときなど、信玄の攻城法として多用していた事例だ。そして、守りの強固な城に対しては、戦略的な孤立化を計り、自落を待つ。信玄の常套手段であった。翌年、信玄は高天神城に対し、そのような孤立化を狙った行動に出たが、信玄が落とすことのできなかった城ということで、この後、高天神城が遠江の要害としてクローズアップされることになったのである。
 さて、高天神城から離れた信玄は、

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2009/01/26




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