コックニー・レベル、ようやくの紙ジャケ復活!二十年近く前の話だが、或る日書店にて発売したばかりの文庫を手に取った。
聞いた事の無い著者の本だったが、目を惹かれたのはその書名である。
文庫裏のあらすじを読んでいると不意に気に成る箇所があった。
「・・・・そんな麻希子は、左足が少し不自由な少年・工也に出会う。」
そして極め付けは「サムバディー・コール・ミー・セバスチャン」の文字。
「こ・・・これはコックニー・レベル!と云うかスティーブ・ハーリーの事か?」
それが後に「親指Pの修業時代」で知られる松浦理英子の「セバスチャン」だった。
以前「ビー・バップ・デラックス」の紙ジャケについて書いた時、
その最後に「今度は是非コックニー・レベルの紙ジャケを宜しく」等と書いたが、
ようやくその願いが届いたか?、今月に目出度く紙ジャケで再発が叶った。
しかしビー・バップが全作品の再発紙ジャケ化が実現したのに対して、
コックニー・レベルは今回も最初の2作品のみの再発と云うのが残念だ。
まあ厳密に言えばコックニー・レベルとしての作品は確かにこの2枚だけなのだが、
一応「スティーブ・ハーレー&コックニー・レベル」名義で後4枚残っている。
特にジョージ・ハリスンの「Here Come The Sun」の最高のカバーを含む、
名作の誉れ高い最後のスタジオ作品と成る「Love A Prima Donna」は、
淡い色彩の美しいジャケと云い、是非とも紙ジャケ化して欲しかった作品である。
さてコックニー・レベルと言えばグラム・ロックの範疇に入れられるバンドだが、
この時代の優れた英国のバンド同様、主流と成るスタイルを取り入れながらも、
自分たちにしか出せない音・描けない世界を追求したバンドである。
ハーリーの描き出そうとしたのは、エレガントな装いの下の醜さや、
未来を描けないが故の享楽、狂騒的な仮面劇のやるせなさと言った、
グラムロックの明解さとは一線を隔した知的でハイソな世界だ。
何処と無くヴィスコンティの映画に共通する様な退廃感に溢れている。
なのに自らコックニー(労働階級の多い倫敦の下町的な意味もある)を名乗る、
そんな諧謔味とキャンプな感覚は実に英国らしい捻くれ方で最高だ。
幼い頃にかかった小児麻痺により片脚が少し不自由だったハーレーは、
自意識過剰な世界観を持った独特の存
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