写生の心ーー横山大観の言葉から高校の友人が米子にある大観の足立美術館を訪問、そこに展示されていた「大観の言葉」をメールで送ってくれた。絵画をたしなむものにとって極めて有益な言葉だが俳句を作る上でも非常に参考になる。
大観の言葉の一部に「富士の名画というものは昔からあまりない。それは形ばかり写すからだ。心とは畢竟人格に他ならぬ。それは又気品であり、気魄である。富士を描くということは、つまり己を描くことである。己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。富士を描くには理想をもって描がかねばならぬ。」又「東洋には墨絵と申して墨一色だけで描く絵がある。これは作者の性格の高下、思想の深浅乃至清濁等に至るまで此の墨一色によって端的に現されるものである。墨には五彩がありと申すが、墨はただ墨一色でありながら其中には濃淡渇潤の千変万化があり、これが色彩以上の複雑さを現して、色彩を超絶したる実在感を端的に微妙に表現するのである。」
つまり描く人の心、人格が出ていなければ作品にはならない。これは何と厳しい言葉だろうか。「作者の性格の高下、思想の深浅乃至清濁等に至るまで此の墨一色によって端的に現されるものである。」墨の色に性格まで出るとは、またそこまで観察、見通すとは矢張り凡人の技ではない。俳句の場合も具象を通して自分の思いを伝えなければ、単に自然を詠っただけでは駄目だとよく言われるがそれも畢竟同じ事を言っているのであろう。
これに関連すると思われるのが禅の修業だ。{禅院は通例山林の間に在るので、そこに住むものは「自然」に密接に接触をする。そして、自ずから親しさと同情を以て「自然」にまなぶことになる。彼らは鳥や動物や岩や川やその他市井の人々が気づかぬままにある自然物を観察する。それは単なる博物学者の観察ではなくて、禅僧たちはその観察する対象の生命そのものの中まで入り込まねばやまぬ。だからいかなるものを描いても、かならず、彼らの直感を表現することになって、「山や雲の精神」がその作品のなかにおだやかに息づいているのを、感じることができるのである。}(鈴木大拙「禅と日本文化」岩波新書)
雪舟などもそうだが、観察し、観察し抜いてそこに対象の持つ心まで見抜こうとし、又それを通じて自分の心を表現するところから偉大な作品が生まれるのだ。
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