ハノイの抜けるような青空

ハノイの抜けるような青空(2003年2月17日)


ILOハノイ事務所のオープニングでILOの旗を掲げる


「うーん。やっぱり、アメリカの猛攻撃を耐え抜いた国だけのことはあるなー。」
それはILO法律顧問のロイック*ピカールとケルビン*ウィドウスそれに私が、2001年6月の総会中、何度か繰り返し吐いたため息と台詞だった。問題は、ハノイ事務所のローカルスタッフに対するベトナム側の非課税条項だった。ベトナム代表部のグエン*キー*ビン大使との間では、1999年6月に、公文書まで交わして了解済みだった筈のことが、その公文書に署名したグエン*タン*チヤウ前外務省国際機関課長の部下である課長補佐によって突然否定され、しかもその理由が、「本国の方針である」、の一点張りなのである。私達は、それが、ベトナムの官僚機構の非効率性を示すものなのか、一筋縄ではいかないタフネゴシエーターぶりを示すものなのかを、正直、図りかねていた。その後、調査の結果、ユネスコが事実上課税権を認める合意文書を交わしたため、ベトナム大蔵省が強硬路線に転換し、外務省はこれに追随しているらしい、と見当を付けるに至った。

 ILOハノイ事務所の開設交渉は1997年後半から始まった。当初、ILO、ベトナム政府双方が前向きなこの交渉は、スムースに進むものと誰もが思っていた。ところが、翌1999年、話が職員の免責特権(注1)に至るや、突然座礁してしまったのである。この免責特権問題は、国連のような国際機関にとっては、その活動の根本に係る致命的なもので、ILOがきれるカードは、特権の本質を変えないような表現上のものに限られていた。6月までの交渉経過を踏まえて、私は、これ以上の進展がない場合、事務所開設を白紙に戻す選択肢も含め、交渉期限を2002年3月の理事会前までとする基本方針を打ち合わせて、バンコクに戻った。

 膠着状態だった合意文書について、解決への一筋の光明が射したかに見えたのは、2001年の暮れだった。所長のローズマリー*グレーブから、ユネスコを除く国連機関の団結が功を奏して、大御所の外務省が打開に乗り出して来そうなので、私から外務大臣宛に、改めてこちら側の案を送付してもらい

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Jun 17, 2004




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