無眼仏像の形状を記述するとき、普通、眼の記述では、“彫眼”と“玉眼”という言葉を使います。しかし、眼の形状を表すのに、どうもその2つの分類に、こだわってしまっているように思います。いはば、玉眼でなければ、彫眼と記述しておけば、無難な表現であろうと思ってしまうのは当然だろうと思います。
しかし、眼のない仏像は厳然として存在するのです。大阪府堺市の太平寺の阿弥陀如来坐像は明らかに、瞼を彫っていません。以前掲載した、長野県の大法寺の十一面観音立像は眼球のふくらみの下に線が入っていました。これを眼を閉じた瞼と解釈しようとした人がいました。しかし、閉じた瞼の線はそんなに下につくはずはありません。この太平寺像にいたっては、眼球のふくらみをあらわしてはいますが、下に線ははいっていません。眼を閉じた表現とするには、明らかに無理があります。
彫眼とは、眼の瞼を彫ることによって、眼の表現をしている形状を言うのであって、瞼を彫っていなければ、彫眼という定義にあてはまりません。
それでは、瞼を彫っていなくて、仮に筆で眼を描いたら、これは何と言ったらいいのでしょう。いままで、私の見た経験から言うと、後補で眼を描いている彫刻はありましたが、瞼を彫っていなくて、眼を描いている仏像を見たことはありません。
これは、眼のない仏像に、後補で眼を描いた例でしょう。もともと眼のない仏像でも、後世に眼を彫る可能性もあるので、注意が必要でしょう。
それで、仏像の形状の記述に、このような眼のない形状を表す“無眼”という用語を用いることを提唱したいと思います。“玉眼”、“彫眼”、“無眼”と3種類の眼の形状についての用語を用いれば、より正確な記述となることでしょう。
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