76 ハローグッドバイ帝都大学病院の一室では、ベッドに座る希に母親が林檎を剥いて食べさせていた。
母親には一つ気になっていることがあった。
時折外の景色を見ている希の表情だ。
何かを待っているような、そんな表情に見えた。
長い昏睡のせいか、以前に比べてあまり笑わなくなったのも心配だった。
林檎を頬張っていた希が、突然ベッドからぴょんと飛び下りて窓際に駈けて行った。
そして何かを見てケラケラ笑っている。
嬉しくて、楽しくて堪らないといった笑い方だ。
母親も窓際に来て、希が何を見ているのか確かめた。
窓の下にいたのは、柄の悪い老人、ヤクザ風の中年男、セールスマン風のちょっといい男、頼りなさげな今風の若い男、キューピー人形のような髪形の、見るからに変質者っぽい小男。
その5人が何やらポーズを取っている。
戦隊物のポーズの真似でもしているのだろうか。
見るからに危なそうな連中なので、窓を閉めようかとも思ったが、あまりに希が嬉しそうなので我慢した。
希はその怪しい連中に、小さく手を振って答えていた。
でもとにかく、希のこんな笑顔が見られただけでも大満足だった。
病院の帰り道、須賀が話し始めた。
「わしはヤクザを引退します。希君が残してくれたセイギのココロがあるのにヤクザはできません。老人福祉関係の仕事をやるつもりです」
しっかりした口調だった。
伊能はふと疑問に思った。確か須賀はボケ始めていたはず。
「何かを得ることは、何かを失うことです。わしは希君を失ったが、希君はわしに明晰な頭脳を残してくれた」
「そういえば俺も味覚が戻ったよ。留置場の弁当がやたらと美味かった」
土岐の言葉に、万全が不満そうな顔になった。
万全は激しい発毛、脱毛のサイクルが終了したとき、最初と全く違う髪形になっていた。
頭頂部が河童のように禿げていたのが、今はその部分にだけ毛が生えている。頭の周りを縁取っていた毛髪はきれいに無くなっていた。モヒカンというよりキューピー人形のようだった。
「僕は何を得て、何を失ったんでしょうか?」
万全の問いに、伊能は思わず噴き出した。
「お前は簡単だよ。頭のてっぺんの毛を得て、周りの毛を失ったんだ」
万全は不満そうに鼻を鳴らした。
土岐が伊能の顔をまじまじと見つめた。
「何ですか? 土岐さん、人の顔をジロジロ見て」
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