53 バイタルサイン(生命徴候) 希が大きな氷の中に閉じ込められていた。
必死で氷を打ち砕こうとするが、表面に傷一つつけられない。
見る間に希はぐったりとしていく。
希の母、由美子ははっとして目が覚めた。
昨夜希の病室でずっと本を読み聞かせていた。
小さな男の子が不思議な世界を旅する物語だった。
それはいつの間にか自分が熱中してしまうくらい面白い物語だった。
そのまま希の手を握り締め眠ってしまったらしい。
深夜の病室はいつも通り静寂に包まれていた。
常夜灯の淡い光が、風にでも吹かれたかのようにすーっと暗くなった。
由美子はそのとき気がついた。
握ったままの希の手が氷のように冷たくなっていることに。
慌てて由美子は希の両頬を手で挟みこんだ。
冷たかった。
半開きのあどけない唇も色を失っている。
ナースコールを立て続けに押す。
パジャマの胸をはだける。
薄い胸に耳を押し当てた。
かすかに聞こえる心臓の鼓動。
由美子は冷たい体に体温を取り戻そうと、声にならない叫びを上げながら手でこすり続けた。
看護士と続いて医師が入ってきた。
医師は希の様子を一目見るなり「バイタル!」と看護士に命じた。
押しのけられた由美子は壁際で震えながら「神様…ああ神様どうか」とつぶやき続けていた。
医師の指示によって大きな機械が運び込まれてきた。
何本ものコードが希に繋がれた。
それが終わると医師が由美子の元へ来た。
由美子は医師の表情を食い入るように見つめた。
「バイタルサイン、脈拍、呼吸、血圧、体温のことですが、これは基本的な生きている証のようなものです。希君の場合、新しい病変が起きたとは考えにくいのですが、なぜかこのバイタルが全体的に低下しています。これは長く意識のない患者さんに比較的よく見られることです」
由美子は医師の袖をしっかりと掴んだ。
「それで、先生、希はどうなるんですか?」
医師は由美子から視線をそらせた。
「まだ今の段階では……ただ、このままバイタルが落ちていって……最悪の事態もありえます……」
由美子は力が抜けて床にへたり込んでしまった。
――あの物語を早く読んであげなくちゃ。
昨夜途中で終わった、少年の素敵な冒険の物語。
なぜかそのことばかり考えていた。
コメント(2)|コメントを書く
カテゴリー一覧
最近のコメント
プロフィール
このブログを友達に教える