新聞記者の国語力 首相の国語力が問題にされている。例の未曾有をみぞゆうと読んだとか頻繁をはんざつと読んだとかいう話だ。首相としての資質を問う声が挙がり、内閣退陣要求の材料にまでなっている。しかし、そういったことをあげつらっている新聞記者の国語力は大丈夫なのだろうか。私はおおいに怪しいと思っている。最近の新聞を読むにつけ、でたらめな言い回しが多いのが気になってしかたがない。このあいだはついに朝日新聞岡山支局へ電話をしてしまった。「おい、ちゃんと日本語が書けるようになってから記事を書け」と言うと「何か問題ありますか」と来た。「今日の朝刊を持ってきてみろ。交通事故で重体を負ったと書いてあるだろうが」と指摘するとさっきまでの自信はどこへやら、小さな声で「すみません」。「荒垣秀雄や長谷川如是閑が草葉の陰で泣いているぞ」と追い討ちをかけようかとも思ったが、どうせそんな先輩の名前は知らないに決まっているからよした。
どうしてこんなことになってしまったのか。彼等の犯す過ちを検討している過程で一種の法則のようなものが見えてきた。それは子供の頃から幅広く読書をしていないという傾向だ。受験勉強の弊害のひとつだろうが、読書にあてる時間が子供にない。受験に必要だから難しい言い回しや慣用句などは一応知っている。しかしそれが生きた文章の中で使われているものに触れていないところに問題がある。「換骨奪胎のそしりを免れない」と書いている記者がいた。換骨奪胎は別に悪い意味ではないのに。あるいは「40年越しの勝利」。40年越しの恋愛なら訳がわかるが。彼等に日本語をまかせていたら日本がおかしくなってしまう。
単身で渡米し、テニス修行をした日本の若者があちらの大会で優勝したことを報じる朝日新聞の記事中に面白い表現があった。その若者は時々日本の父母のところへ電話をするそうだが、その部分に「弱音は見せない」と書いてあったのだ。一面の記事でこれではなげかわしい。付け焼き刃の日本語だとばれてしまう。
「寸分おかずに型へ流し入れる」というのもあった。寸分違わずというのならわかるが。こんなことを気にする私が神経質すぎるのだろうか。最近よく使われる「メディアに露出する」とか「結果を出す」とかいう言い回しも聞くたびに鳥肌が立つ。大学の授業は講義であるべきだし、マラソンでA選手がB選手をかわすというのは抜くが正しいのだ。あるいは郷里とか田舎と言うべきところをすべて地元と言ってしまうとか、男の実家というのもはなはだ奇異な感じがする。
文部科学省の方針で小学校でも英語を教えるようになるそうだが、それよりも国語教育に力を注ぐべきだと私は思う。国語の基礎が出来ていない者が外国語の学習において上達するわけがない。わが国は何を勉強するにも先ず英語に習熟してからでないと始まらない発展途上国ではな
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