原市沼の古代蓮2

今夜は七夕ですね。幼いお子さんのいる家庭では今夜は七夕飾りでしょうか?我が家も昔は七夕をしていましたが、いつの間にか何もしなくなりました。

7月1日の埼玉県伊奈町と上尾市の境にある原市沼の古代蓮です。この古代蓮は埼玉県行田市で発掘された1300年前の古代蓮(行田蓮)を分けてもらった古代蓮です。綺麗ですね!大賀蓮と行田蓮の違いは私には分かりませんが、どちらかと言うと大賀蓮の方が少し白っぽく、花弁の先が少し赤みが強くなるように見えます。大賀蓮は毎日背丈が伸びて最後の方は脚立の上からでないと花を上手く撮れなくなります。行田蓮は大賀蓮より少し赤みが強いかと思います。背丈も大賀蓮ほど背が高くなりません。同じ種類だとも言われていますが少し違うのではと思っています。カメラはオリンパスE-3とズイコーレンズ14-54mm&50-200mm&50mmマクロ&x2テレコンです。

関八州の天領(幕府直轄領)30万石の代官として原市沼の隣に1万石の陣屋を設けた伊奈忠次はこの沼を防衛拠点としました。領地は伊奈町と鴻巣市で合計1万石で大名の末席でした。伊奈氏は信濃伊那の出身で徳川家康の父である松平広忠の家臣となり譜代衆でした。しかし、父親の伊奈忠家が三河一向一揆に加わり家康と敵対し徳川家から離れましたが長篠の戦で陣借りして武功を立てて徳川家へ帰参しました。徳川家康の嫡男の松平信康の家臣として伊奈忠次は父親と一緒に付けられましたが、信康自刃後、再び徳川家を離れ戦国時代から東洋のヴェニスと呼ばれた堺に住んでいました。本能寺の変の直後、堺見物中だった徳川家康が明智光秀の追手を逃れ本国へ帰るための逃避行であった伊賀越えに小栗吉忠に協力して貢献し再び帰参が許されました。徳川家から離れ堺に住んでいたのは偶然なのでしょうか?後に駿・遠・三の奉行で代官頭だった小栗吉忠の同心として活躍し後に小栗吉忠の後を継ぎ代官頭となりました。徳川家康の関東入部後は関東代官頭として関東の治水や新田開発は彼が基礎を築いたと言われています。

北宋の蘇軾(そしょく)の詩。

 水光瀲灔晴方好 すいこう れんえんとして はれ まさによし
 山色空濛雨亦奇 さんしょく くうもうとして あめもまた きなり
 欲把西湖比西子 せいこをとって せいしに ひせんと ほっすれば
 

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2009/07/07



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