行田市 古代蓮の里26月19日の埼玉県行田市の古代蓮の里と小埼沼(おさきぬま)です。小埼沼とは現在は本当に小さな池となっていますが、古代の万葉の時代は大きな沼で巨大な埼玉沼の一部だったのかも知れません。昭和50年ごろまでは小針沼と呼ばれる沼があったようです。宝暦3年(1753)に忍城主、阿部正因によって建立された碑が建っています。碑の内容はこの場所が小埼沼に違いないとの内容です。小埼沼については諸説があり現在でも確定はされていません。羽生市尾崎(利根川右岸)や岩槻市尾ヶ崎新田(綾瀬川左岸)等が小埼沼の候補地として挙げられています。しかしこの行田の小埼沼は武蔵国造家だった笠原氏のさきたま古墳群から東に2.5キロ程の地にあり古代の埼玉の津(さきたまのつ)と呼ばれた利根川か埼玉沼の河港の近辺にあったと思われます。
行田は戦国末期に有名になった成田氏の居城で豊臣秀吉の小田原征伐の時に別働隊として石田三成に2万7千の兵を指揮させて群馬県方面から小田原城へ向けて攻め込ませたのですが、忍城の強硬な抵抗により石田三成は忍城で止められてしまいました。忍城を水攻めしたのですが、逆に堤を切られたために寄せ手に多くの犠牲者を出してしまいました。浅野長政等の援軍を得て3万数千の軍勢で攻め立てました。忍城の主力は城主の成田氏長とともに小田原城に立て籠もっていたため、城主一族の成田長親を大将として留守部隊と近在の農兵の3千数百だけの籠城となりました。攻防戦は長引き小田原城が開城しても戦い続け、城主の開城を命ずる手紙が届くことにより開城しました。小田原の北条氏方の城で一番最後に豊臣秀吉に降った城でした。城主の成田氏長は小田原城に籠城する前から徳川家康に降伏の意思を示していたようですが、忍城に籠城していた成田長親等の坂東武者の意地が最後まで強硬に抵抗させたのかも知れません。籠城の大将だった成田長親は一族の中でも最も無能と見られていた人物のようで、小田原城へ籠城していた城主の成田氏長は忍城は適当に戦って降伏するものと思って主力部隊を率いて小田原へ行ったようです。しかし意外や意外、成田長親は短期間のうちに弱小と見られた籠城の兵士たちを一つにまとめ上げ最強の兵士に仕立てあげてしまいました。石田三成の力攻めにも負けず、水攻めにも屈しませんでした。成田氏長の戦後は会津の蒲生氏郷(がもううじさと)に預けられ客将として伊達政宗の勢力と対峙し蒲生氏の危機を救ったこともありました。会津時代に成田氏へ付けられた蒲生氏の与力が伊達氏に内通し戦となり、その戦いで女性ながら武勇を表した娘の甲斐姫が後に豊臣秀吉の側室となり、下野烏山城2万石に取り立てられ大名となりました。忍城の籠城戦
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