「いい加減」の難しさ大阪では、いつも自炊。外食もなんだし、親父と二人だし、どっちもいい歳したおやじなので、簡単なものをチャッチャとつくります。小魚を焼いたり、あさりを蒸したり。今晩は、葱とごぼう天の卵とじ。おだしと味醂とお酒で少し煮て、卵をとじるだけ。で、出来上がりを食べると、少し甘かった、というか、親父曰く、かなり甘かった。
材料は目分量だから、そのたび味が違います。でもまあ、いつもはそれなりに食えるので、きっと今日は味醂が多すぎたのでしょうね。レシピを見ながらきっちりやれば、まあそこそこのものは作れるけれど、そこまでの気合いもなく、いつも勘でやります。勘どころがわかってないのに勘でやると、こういうことになります。
料理に慣れた人なら、味醂はこのくらいでこんな味、というのが頭に入っていたりするから、勘でやってもうまくいきます。慣れた人は、普段着の料理ではいちいち分量を量ったりはしないでしょう。つまり、「いい加減」というのがきちんとわかっていたりするんでしょうね。
「いい加減な奴」というふうに使われる、いい加減という言葉ですが、「いい加減にしろ」というように限度を超えてふざけたりした時に使われることもあります。前者は「適当」がネガティブに、後者は「適当」がポジティブに使われています。
料理でいえば、前者の意味で「いい加減」に作った料理はおいしくないけど、後者の意味で「いい加減」に作った料理は、その人らしい無二の料理にもなります。後者の意味でいえば、自分なりの「いい加減」は、誰かの「いい加減」を記したレシピっていうのがあって、それを真似しながら自分のものにしてはじめてできるものなのかもなあ、と思いました。
いわゆるおふくろの味というのも、それぞれのおふくろさんたちの「いい加減」のなせる技でしょうし、ほんとは「いい加減」というのは素晴らしいものなのかもしれません。でも、今は、いい意味での「いい加減」を会得するのに欠かせない小さな失敗を許さない感じもあり、その人なりの「いい加減」をつくるのが難しい時代なのかもしれません。
誰でもそれなりにうまくできる緻密なマニュアルもありますし、その枠内でやりなさいと求められる状況も多いように思います。そんな行動原理が支配する状況の中で、個性を発揮せよとも要求されたりもするけれど、じつは行動を支配するその原理は、原理的に個性を許さないような原理になっているわけだから、そこでの個性は意味のないかけ声にすぎないでしょう。
でもねえ、そんな「いい加減」を許さない行動原理にも致命的な弱点があって、それはその行動原理の台本であるマニュアルが破綻するときなんですよね。マニュアル通りでは、どうにもうまくいかないとき、「いい加減」力が
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