自分さえよければいい この悲しさ本当は4月中にこの文章を書いておきたかったのですが、落ち着いてパソコン前に座る時間がなく、いつの間にか5月になってしまいました。
「2009年4月のことば」
「五逆」について触れ、誰もが五逆の罪を犯している罪人です、と書きました。
違和感を持った方、私は五逆の罪を犯してない、と感じた方もいることでしょう。
「2009年4月のことば」の文章を書いた背景には、ある法座での出来事がありました。
その法座で、先生は、「人は誰もが仏性(ぶっしょう:仏になる性質)を持っている」と説かれました。「しかし、五逆の罪を犯した者はこの限りではない」とお話くださいました。
先生の「仏性」理解ではなく、仏教のおしえとしては、その通りなのです。五逆の罪を犯した者に、仏性はないと経典には説かれているのです。
で、先生のお話も終わり、質疑の時間。ある方が質問をされました。
「私は五逆の罪を犯していませんから、当然仏性があるわけですが、どうすれば仏になれますか?」という質問だったと思います。
その質問を聞きながら、唖然としたというよりも、「あぁ、今日の先生の話を聞いて、そのように思っている方は多いんだろうな」って思ったのです。自分が五逆の罪人なんて考えないだろうなって。
先生の「五逆」の説明を聞きながら、
「親に迷惑ばかりかけてきたなぁ。今でも心配ばかりかけてるよなぁ。人が生まれるってことは、母体にどれだけの負担をかけているか分からないんだよなぁ。今の日本では、五体満足・母子共に健康で赤ちゃんが誕生することが当たり前のように思われているけど、とんでもない。どれだけの危険と隣り合わせでいのちが誕生するのか、そのことがあまりに無視されているよなぁ」
などと考えていました。
実際に父・母を殺したという人はいないかもしれないけれど、私の存在そのものが、父・母の苦労の上に成り立っているんだということを考えていたのです。
そんなことを考えていたものですから、先の質問を耳にしたとき、「悲しい質問だなぁ」って感じたのです。
それに、『祖父母やおじおば殺害は「五逆」の対象ではないから、「仏性」は持ち続けている』なんて、どうして言えるでしょうか。
そのような「自分はキチンとしているから」的な発想は、「自分さえよければいい」という想いが根底にあるような気がします。
それはつまり、一緒に法を聞く仲間(僧伽)に対
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