[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性(仏教とキリスト教の平行理解の根本)ここでの真諦・俗諦の定義を何回も繰り返します。
真諦は『言語的認識が断絶し、そのものになりきっている、それそのもの』です。
真如そのものです。言語的認識を超えた真理そのものです。『一番元の、一番論じようもないところ』(カテゴリー「宗教の窓」の[S2])です。
既に述べたように、これは位置的に言って、キリスト教の(父なる)神に対応します。
他方、俗諦は、断じて無明底的パラダイムの表現、すなわち通常の世間的認識・世間知=此岸的な世界観のことをいうのではなく(これは、以下で「此岸的世間諦」と呼ぶことにする)、
真諦(彼岸)を指向(志向)するための、真諦に関する言語的認識・表現です。
それは、真諦を指向(志向)するものである点において、高度の真理性があるものですが、真理そのものではなく、言語的認識として捉えられたものであり、一種の方便(キリスト教的にいうと、媒介者)として仮設されたものです。
また、ここでは単なる此岸的な世界観のことは、、真諦を指向(志向)するという宗教的性格を持たないため、俗諦とは明確に区別され、『此岸的世間諦』と言うことに致します。
すなわち、非宗教的なものの見え方は、すべて『此岸的世間諦』になります。
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俗諦の仮設性は、言語的認識・表現によることに由来します。
その意味で、ここでは(俗諦の世界が成立するにあたっては)「初めに、言語的認識があった(唯だ、識があった)」ということができます。
すなわち、新約聖書ヨハネ福音書第一章冒頭の『初めに、言葉(ロゴス)があった』ということになります。
キリスト教では、この「言葉(ロゴス)」=神の御言葉は、そのまま媒介者たるキリストを意味するとされています。
すなわち、キリストとは、俗諦(「言葉(ロゴス)」)のことです。
だから、キリストは媒介者です。
龍樹尊者は、中論第二十四章において次のように書いています。
第八頌(24-8)
二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダの法(教え)を説いた。
〔その二つの真理とは〕世俗の覆われた立場での真理と、
究極の立場から見た真理とである。
[注]
中村先生は、鳩摩羅什訳では、単に「第一義諦(真諦)」となっているところを、
ここに限り『究極の立場から見た真理』と訳しておられます。
しかし
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