[M13] 空(自性無性)と欲界・色界・無色界の解体大乗仏教の中核教義は、『万物・万象には自性がない(万物・万象の無自性性)』、
すなわち、万物・万象は『空』であるということにあります。
そうすると、キリスト教と仏教を統一的に理解しようとする傾向性の強い私とすれば、
キリスト教の中核教義『万物・万象が神(造物主)の被造物である(万物・万象の被造物性)の意味するところは、このこと、すなわち、仏教で言う万物・万象の無自性性ということと究極的には同じでなければならない、では、果たしてそう見ることができるか、ということに考えが向いて来ます。
[注] この点に関して次に、
[M14] 唯識でいう依他起性とキリスト教でいう被造物性、を追加しました。
しかし、そのことは当面、問題にするのはやめて、仏教内における足場を固める方が先決です。
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菩提樹下に坐し、明けの明星を機縁に大悟した釈尊の説法は、悟りの深遠性・不立文字性の故に、極めて限定的にして、しかも自制的です。
しかし、それ故に多くの場合、釈尊の説法は表現において具体的に見えます。
大乗仏教の教義は、その限定性・自制性から離脱して、釈尊の悟りの中心を真正面から精一杯に捉え返すものであります。
それ故に、捉え返された『釈尊の悟り』は、表現において抽象的になります。そして、それが上記、空観である、と考えられます。
しかし、そうするとそのように捉え返された『釈尊の悟り』は、『釈尊の悟りではない』『釈尊直説ではない』という理解も生まれます。
大乗仏教の流れの中にどっぷり浸かっている日本仏教の中にいると当然の前提になってしまっているこのこと(大乗仏教の空観)は、果たして本当に(実質的に)『釈尊直説』であるのかを、我々はどこかで一度は自分なりに検証してみる必要があろうかと思われます。
なぜなら、さもなければ、釈尊が文字通り直説される原始仏教と我々の慣れ親しんでいる大乗仏教を重層的に(=矛盾のない、一貫するものとして)重ね合わせながら、その双方から学ぶことができなくなります。
「パーリ語経典に書かれている教え(西方注・・・上座部仏教=小乗仏教)を自らの実践の土台に据えることなしに、自分は大乗仏教の信徒である、と言ってみても、それは意味がない」と言われるダライラマの言葉に応えるすべがなくなります(ダライラマ著「般若心経入門」P.72)
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