[K18] 西方法界、長年の誤謬に愕然とする

仏教の教えは、以下の三点に集約される、というようなことをどこかで聞かれたことはないでしょうか。

  ① 諸行無常
  ② 諸法無我
  ③ 涅槃寂静

私もかなり初期的段階で、どこかで聞いて、あるいは読んで、こうして覚えています。(改めて調べてみると、三法印というのだそうです。)
従って、そう見ている限り、仏教的には誤りはないのだと、当然の前提のごとくして、長年にわたりそう思ってきました。そして、そのことは疑う余地すら感ぜずに今日に至りました。皆さんはいかがでいらっしゃいますか。

ですから、①はいいとしても、②については『宗教の窓』において、[S5][S6]などで、台風12号の例と「一即一切、一切即一」・即非の論理などを使いながら、存在論的に(現象世界の見方として)考察を進め、ここでいう「諸法無我」の理解に至り、「現象世界の見方としては」そこで、一応「実相」というべきものが把握できることを論じました。そう書いてはおりませんが、これが、いわゆる「法空」です。
そして、それを踏まえながら、やがて般若心経で通常問題にされる「空」(自分自身が空になる、という場合の空)、すなわち「人空」に眼を向けていく、という方向を見ておりました。「死と復活」を書き終えた現段階が、「法空」から「人空」への境界面というか、実は「死と復活」自体が、実は「人空」に足を踏み入れてしまっている、という結果になってしまっているわけですが、問題がどこにあるのかというと、その場合でも、②諸法無我というのは動かざる仏教的真理である、というように、ずっと思い続けておりました。いや、それはある意味では、そうなのですが・・・・。

ところが、ある方の御指摘で、阿含経を参究中なのですが、それはとんでもないことだ、釈尊は「無常なるもの」「無我なるもの」から『離れなさい』、それは移ろいゆくものであって、「①無常なる諸行、②無我なる諸法」のなかに留まっていてはならない、といっておられる、ということを、阿含経で明確に繰り返し、そう説かれている、それが最重要ポイントになっているのを確認して、現在愕然としております。

すなわち、「無常なるもの」「無我なるもの」であるがゆえに、それに囚われること(執著すること)が「苦」になるのであって、それ故一切の「無常・無我なるもの」に対する執着から離れなさい、「無常なるもの」「無我なるもの」は、色受想行識の五蘊として立ち現れているが、それこそが滅尽の対象なのだ、というようにつながってきております。
それが、般若心経の冒頭につながることになります。すなわち、我々が空ずるべき対象としての五蘊とは、そのような『無常・無我なるものとし

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2008/06/01




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