トマスによる福音書(1)

梅爺の周囲を見てみると、『宗教』を生きる心の支えとして、純真な『信仰』をもたれている方と、『宗教』は、なにやら自分の理解を超えた世界で、真剣には考えたくない、近寄りたくはないと思っておられる方がおられます。

梅爺は、自分を冷静に眺めてみると、そのどちらでもなく、極めて中途半端であることがわかります。つまり、『宗教』には多大な興味を抱きながら、『信仰』を持つほどにいたっていません。

『信仰』をお持ちの方からは、顰蹙(ひんしゅく)を買いそうですが、人類の歴史の中の『思想活動』の一つとして、『宗教』は、梅爺には興味深いものです。人類は、最初に、自分をとりまく自然の中に存在し、自分を支配しているように見える『理解を超えたなにものか』を感じ取り、これを『神(または仏や霊)』という『抽象概念』で呼び、仲間内の共通知識としたものと推定しています。

この原始的な段階では、後の宗教が思想体系として創り上げた『教義』などは存在していませんので、『信仰』も原始的であり、ただ、『自分達に恵みをもたらして欲しい、自分達に危害を与えないで欲しい』と願い、祈り、恐れる(畏れる)ものであったにちがいありません。願い事(良いことが起こるように、悪いことが起きないように)のために儀式をする、神にお供えをする、などという行為は、今でも多くの『宗教』に共通しています。日本には、『神様にじっとしていてほしい、祟(たた)らないでほしい』という、『鎮(しず)める』という考え方があります。

やがて、権力者が、人々を支配するために『神』を利用しはじめ、『宗教』は、ややこしい存在になります。エジプト、インカ、マヤなどの王は、『自分が神から遣わされた存在』であることを強調し、地位を権威付けようとしました。しかし、この王達も、勝手に神を『デッチあげ』て利用したのではなく、自らも神の存在を信じていました。

さらに、人類は、権力とは無関係に、『理性・知性』で、この『

(1/2) 次»

日記・コラム・つぶやき
2009/07/07




コメント(0)|コメントを書く

カテゴリー一覧
最近のコメント

このブログを友達に教える

コミュニティ | 有名人・芸能人ブログ | ケータイ占い | ケータイ小説 | 掲示板


画面TOP↑


powered by cocolog