教育社会学絡みの本でメモ教育も含めて社会システムの問題を考えるとき、“自己決定”“自己責任”というロジックがどこまで信憑性をもって通用するのか?という根本的なアポリアにぶつからざるを得ない。“自己決定”論そのものは正論であって否定はできない。ただし、その条件整備はどうなのか。
かつての身分制社会とは異なり、現代社会はメリトクラシー(業績主義による選抜システム)に基づいて組み立てられている。つまり、機会の均等が前提である(仮にそれがフィクションに過ぎないとしても、そのフィクションが社会全般に共有されていなければシステムとしての正当性、“公平”さが確保できない)。学歴と職業的達成とに結びつきが見られるが、社会階層と学歴とに相関関係があること(学歴の親子間継承)が指摘されている(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ──学歴主義と平等神話の戦後史』[中公新書、1995年]、佐藤俊樹『不平等社会日本』[中公新書、2000年]など)。つまり、義務教育以前の家庭的・環境的要因によってスタートラインが異なる→ところが、受験競争(=機会の均等)というフィルタリング→スタートラインにおける格差が覆い隠されてきた。また、学習に向けた意欲そのものにも家庭環境によって格差がある(意欲格差=インセンティブ・ディバイド)→“機会の均等”には“努力”の均等分布が大前提となるが、この仮定自体にも疑問符がつけられてしまう(苅谷剛彦『階層化日本と教育危機──不平等再生産から意欲格差社会へ』[有信堂、2001年]、山田昌弘『希望格差社会──「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』[筑摩書房、2004年]など)。苅谷剛彦『教育と平等──大衆教育社会はいかに生成したか』(中公新書、2009年)によると、戦後日本社会における義務教育制度整備の努力→均質的な教育空間の創出→教育の画一化・国家統制など様々な批判があるのは確かだが、同時に少なくとも環境要因による悪条件是正・格差縮小に貢献してきたと評価することもできる。しかし、財政縮小→そうした努力を裏付けた財政的再配分政策の維持困難→義務教育以前の家庭的・環境的要因による格差が露わになる可能性がある。
苅谷剛彦『学力と階層──教育の綻びをどう修正するか』(朝日新聞出版、2008年)を読んで関心を持った点を箇条書きすると、
・①受験勉強→一元的評価基準→分かりやすい→努力目標として成立。対して、②「生きる力」論→目標・評価基準が曖昧→多様と言えば聞こえは良いが、実際には学校以外の家庭的・環境的要因で左右されやすくなる。“ガリ勉”の否定→その生
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