福田恆存「一匹と九十九匹と」

福田恆存「一匹と九十九匹と」(千葉俊二・坪内祐三編『日本近代文学評論選【昭和篇】』岩波文庫、2004年、所収)

 先日、何で読んだのだったか、社会科学が対象とするのは多数であり、一人を対象とするのが文学だ、という趣旨の記述があった。その通りだと思う。そんなことをむかし誰かが書いていたなあ、と喉元まで出かかってわだかまっていたのだが、今週、ふと思い出した。福田恆存「一匹と九十九匹と」だ。

 福田は『新約聖書』「ルカによる福音書」から「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」という一節を引く。彼は正統的なキリスト教解釈とは違うのだろうと自覚しつつも、このイエスの言葉は政治と文学との役割の違いを示したものだと感じ取った。

「…かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのに相違ない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか──イエスはさう反問してゐる。…ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかゝづらはざるをえない人間のひとりである。もし文学も──いや、文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。」(347頁)

 福田のこの文章は1947年、まだ敗戦のショックが覚めやらぬ中、当時勢いづいていたプロレタリア文学派の政治性に対する批判として発表された。もちろん、左翼・右翼の別など問題ではない。ある政治目的の下、人的にも動員され、作品内容としても図式化された文学なんて代物では、この失われた一匹を、この人間の救われがたい矛盾を見つめていくことはできない、そうした憤りに衝き動かされていた。

 政治は具体的に目に見える形での解決を求める。物理的・定量的な問題に還元され、目に見えない人間の心情などはすべて無視される。政治の論理にデリカシーなんて期待すべくもない。だから悪い、と決め付けるのも早計だ。現実には、政治でなければ解決できない問題がたくさんある。ただし、

「善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名分のもとにおこなはれ

(1/3) 次»

哲学・思想
2008/09/26




コメント(2)|コメントを書く

カテゴリー一覧
最近のコメント

このブログを友達に教える

コミュニティ | 有名人・芸能人ブログ | ケータイ占い | ケータイ小説 | 掲示板


画面TOP↑


powered by cocolog