「日本のステンドグラス」

6月4日卓話要旨
建築写真家 増田 彰久氏


 明治政府は、近代化を目指して製鉄や造船や絹織物等の工場を造りました。官営品川硝子もその中の一つですが、明治10年に造られた品川硝子が自前で板ガラスを作り始めたのは、32年後のことですから、それ以前のガラスはすべて輸入品だということになります。
 日本のステンドグラス界をリードしてきたのは、宇野澤辰雄という人物でした。彼は政府の命令でドイツに留学し、ステンドグラスの技法を学び、日本で初めてステンドグラスを作ったのです。宇野澤は明治44年に亡くなりますが、それと入れ替わるようにアメリカから小川三知が戻ってきました。彼は静岡で代々藩医を務める家に生まれ、彼自身も現在の東大医学部を目指しますが、途中で家督を弟に譲り、自分は上野の美術学校に入って日本画の勉強を始めます。当時はフェノロサがアメリカから来るなど、西洋と日本の絵画の間で新しいものを生み出そうという機運が高まっており、彼もそれに刺激を受けて、美大を卒業した後アメリカに渡りました。そこでヨーロッパタイプのステンドグラスとは違う、アメリカタイプのステンドグラスと出会うわけです。アメリカでは、ステンドグラスがアートとして扱われていて、ランプシェードや民家の窓に取り入れられていましたが、彼はそれを日本画と結び付けた作品を作って、日本で初めてのステンドグラス作家として帰国しました。
 三知が作った作品は、北は北海道の小樽から南は九州の鹿児島まで、全国各地に残っています。小樽にあるのは、北の誉酒造の野口家が大正12年に建てた洋館の風呂場にあるステンドグラスです。京都の銀行家からお嫁さんを迎えるために建てたそうで、完成までに7年も要した立派な作品です。青森の宮越さんのお宅には、多くの作品が残っています。三知の作品は、外国のステンドグラスと比べて透き通った部分が多いですが、これは三知が日本画を習得した人だからでしょう。宮越邸には、障子をイメージした大作がありますが、窓の向こうの四季の移ろいを含めて楽しむことができるのは、三知ならではの世界です。皆様おなじみの日本工業倶楽部の中にも、入口の天井部分、階段の踊り場、大ホー

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2009/06/26



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