形の認識。
夏は少し大ぶりの茶碗がいい。新潮文庫の粗品のパンダのマグカップやらアイアンストーンのアンティークのカップやら沢山あるはずなのに食器棚からカップが消えてしまうときがある。すべては息子の部屋に溜まってしまっていたりするのだけれど、そんなこんなで少し茶碗を焼いてみようと粘土を捻った。茶碗が欲しいといって粘土を買ってくる家もめずらしいかもしれないが、団塊堂はガラスだって陶器だって我が家で作るのだ。
陶芸の道具は、一通りあるけれど、これは、ガラス工芸のパートドヴェールの原型を油粘土でつくる為のもので、だから陶芸には肝心の電気で廻るロクロが無い。これはカナリ致命的で、粘土をキューンと捻りだして茶碗を引くなんて事ができない。回転台に粘土を載せて手捻りでやるわけで、機械で挽いた様な美しさが出ない。
この機械で挽いた様な美しさ、というのが今日のお題なのだ。手作りだとか手描きだとかをヤタラと有り難がる昨今だけれど、およそ陶芸の歴史とは、この機械で挽いたような工業的な美しさを追い求めてきた世界でもある様に思うのです。職人芸とは人間が、人の仕業とは思えない様な、つまり人間が精密な機械になった様な領域に達する事だという側面もあると思う。
さて、ツクヅク自分は駄目だと思う。手捻りで粘土をイジルのだけれど、マルがマルにならない、真直ぐが真直ぐにならないのだ。アノ形を作ろうと思っても、アノ形が出来ない。つまり、アノ形を知っているようで、実はアノ形の事は何にも知らないのだ。
さてさて、そんなこんなで、物を作るという作業は、何も知らないという自分を再認識して、叩き直す作業でもあるのです。
なんちゃって、「電動ロクロが欲しいぞ!」と小さな声でツブヤク、団塊堂の今日この頃なのです。
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