◎平和をたずねて⑥ 呉戦災◎平和をたずねて
◎呉戦災 軍港都市の悲傷
たとえば今から65年前――元号は昭和で、その18年のことである。造船と兵器製造の一大海軍基地を成した広島県呉市の人口は40万人を超えて、全国で10指に入っていた。軍港都市として隆盛の極にあった。呉海軍工廠は「長門」「大和」といった巨艦を次々と建造している。
「夏休みに海水浴場で泳いでいると、沖合を戦艦、巡洋艦、駆逐艦、航空母艦とさまざまな艦船が往き来していました。この艦種を当てっこして遊んだものです」
広島大学名誉教授の佐藤裕さん(76)は子どものころの思い出を、そう披露した。いかにも呉育ちらしい。
佐藤さんは中学の1年になると、呉海軍工廠に勤労動員された。1944(昭和19)年の春である。工場内に防空壕を掘るのを手伝い、戦場から軍艦が呉に帰還すると、ペンキを塗り替える作業に汗を流した。
ある日、焼けこげた塗装をはがしていると、水兵がもらした。「それは被弾して飛び散った人間の肉が焦げたものだよ」。これには佐藤さんも肝を冷やし、今も記憶に生々しく残っているという。
飛行甲板の後部が裂けてめくれあがった航空母艦を見たときには、子ども心にも戦局が厳しくなっていると感じとった。米軍のB29爆撃機による空襲が日本全土で激しくなったころ、航空母艦「加賀」の航海長だった叔父が残した言葉を思い出したそうだ。
「呉は最も防備の堅い街だから、心配しないでいい。もし呉が爆撃を受けるようなことがあったら、日本は戦争に負ける。そんなことはない、だから大丈夫だ」
佐藤さんはこの言葉を信じた。以前にちらりと見た戦艦大和にしても、このような巨艦が沈むはずがないと確信したものだ。
しかし大和は沈み、米軍機は大挙して呉にやって来た。45年3月19日午前7時20分、約350機の艦載機に呉軍港は狙い打ちされた。
そのとき佐藤さんは呉駅に到着したばかりで、荷物倉庫に逃げ込んだ。荷物と荷物の間から目撃したのは、赤や黄や茶や白や黒の絵の具をぶちまけたような弾幕の色だった。高角砲や機関銃の激しい射撃音と炸裂音が耳に響いた。急降下した米軍機が機銃掃射の末に爆弾を落としていくと、真っ白い水柱が艦船を包んだ。
水柱が消えた後には、傾いた艦船の姿があった。約3時間にわたる攻撃で、呉軍港に集結していた海軍の誇る艦船は壊滅的な打撃を受けたのだった。
広島県福山市の自宅で、佐藤さんは振り返る。「日本軍による真珠湾攻撃と同じ光景が、目の前で展開されていると思いました。これが戦争なんだと――」
軍人の叔父も死んだ。一緒に通勤していた学友も死に、街も焼けた。佐藤さんは押しかぶせるように言った。「呉は軍港であったがゆえに、宿命的な攻撃
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