2009年5月第4週のメッセージ「狭き門」「
●聖書箇所 ルカ伝22-30節(P.143)
はじめに:今週は、創世記は先週と同じサラに関する箇所でしたので、旧約を休憩し、新約の個所をお話します。ルカ13章には4つのお話がありますが、今日は三つ目の「狭き門より入りなさい」という個所を取り上げます。
この狭き門よりという言葉には信徒向きの意味と一般未信者向けの意味がありますが、どちらの場合も根本の意味は同じです。
一、狭い門と広い門
1、流れに沿う生き方=広い門
●いつの時代の、どのような支配体制の社会でも、ひとは、その流れの中で竿をささずに生きていくのが「賢い=要領の良い」生き方とされる。そのことを少し歴史的に振り返ってみたい。
○アダムとイヴ:サタンの誘惑を拒否して生きていたらどうだったか?おそらく何度も誘惑があり、それに乗った方が楽しそうだと感じたに違いない。
○洪水以前:人々は長寿で、楽園のような地球、楽しみと誘惑が一杯。何の恐れもなく謳歌して生きる中で、100%社会の流れの中で生きているだけで一切問題はないと思っていただろう。「怒りの裁き=洪水が来るぞ」というノア一家の警告は馬鹿馬鹿しいだけで、それは、「ロバが針の穴を通るほどの狭い門、愚かなこと」と感じたに違いない。その中で、ノア一家8人だけが言葉に従ったのは偉大な信仰だった。
○諸帝国の社会では:アッシリア、バビロン、ギリシャ、ローマなどの帝国下にあった人々は、①支配者階級での成功を目指すか、②非支配階級として一生を過ごすかのどちらかで、それも自らの所属は先に決まっており、99%選択の余地がない。数百年続く帝国の支配は、自由、平等、博愛などの精神そのものがあることを知らない。家畜に近い生き方も多かったと思える。与えられた社会の中で疑問も持たずに生きるだけ、流れに流されるだけ、それが当時の生き方であった。そんな社会の中で、アブラハムは「主を恐れる信仰」があるとして選ばれた。ここに偉大さがある。
○ローマ帝国下のクリスチャン:ご存じの通り、300年間の迫害があった。キリストの復活を信じるものは生きたままライオンに食べられる、子どもの目の前で、のこぎりで切り殺される。こんな刑が当然の社会。「努力して狭い門から入れ」という言葉には、このような、厳しい迫害下の聖徒を励ます目的が強かったと言える。
また、ローマ帝政下では、皇帝崇拝が盛んであり、(他の帝国でも絶対的な支配者への崇拝は当然のこと)事業や商売をするには、組合=ギルドに加盟しなければならないが。そこでは会議の前後に偶像礼拝=偶像の前での礼
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