斐徳訣別昨日、一昨日と不思議にいい風が吹き込んだ。いいというのは涼しいからである。老人にはこの風の感触はえも言われない。
ただ昨日は昼近く小雨がぱらつき、あわてて窓を閉めに廻った。横雨が窓ガラスを濡らした。これは困る。
ただその他はまことによい。
老人は自然に逆らうことはしないし、できない。
今朝は早朝から降り続いている.気温も25度と相変わらずだ。風は北に廻っている。
午前8時現在かなり強い雨だ。今日も外出は無理だな。
昼前後強く降ったりしたが、午後2時現在雨止み幾分空が明るくなる。
雲が粗くなり、日光がこぼれている感じ。
私はこの約90年間入院したのは、今下に書いているブログの斐徳陸軍病院に盲腸手術のため、これだけである。
もっとも十数年前交通事故で担ぎ込まれたことがあるが、これは病気のためとはいいがたい。
家内も先般はじめて入院して大騒ぎしたが、わたしのこの次は死ぬる時であろう。
医者通いは普通だから、大病は死ぬ時だけということになりそうだ。
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私の戦争/任官その2
何回目かの衞戍地週番巡察の時、これは昼間だったが胃けいれんを起こして、歩けなくなりやっと部隊の衛兵所まで辿り着き助けを求めた。すぐ巡察司令から後任手配をしてもらって、救急医療室入りとなった。
翌日専門医が診察の結果盲腸炎とわかり、改めて斐徳陸軍病院入院、手術を受けることとなった。
少し時間が経ちすぎていて既に患部が破れ腹膜炎を起こしていた。そのため完全治癒まで1ヶ月以上を要することになった。
手術の日、学生時代同じ下宿に居た1期下の松田房夫君に病院で邂逅し、翌日彼は牡丹江に後送されるといって挨拶に来た、これが一期一会の別れとなった。彼は隣の地区の野戦重砲の部隊に所属し、演習中重砲のキャタピラに巻き込まれて足を折られという。
まもなく退役し、家業の酒造業を継ぎ、数年前になくなったが一度も再会することはなかった。
ただ彼が私の初恋の人に生存していることを伝えたといういきさつがあった。(40年ぶりの電話の原因)
この昭和18年は神のいかなる配慮か。、この他にも何人もの旧友と出会ったり別れたりということが、身辺で発生した不思議な年であった。
ともあれ時折聞かされる内地の非常時体制、ガタルカナルなど苦戦の状況とは裏腹に、駘蕩としてのどかな日々の続く、ここ対ソ正面だった。
材料廠長内藤中尉が当時「映画の友」という雑誌を発行していた橘という人の弟と懇意で、カメラの指導を受けたりしていたが、沢山の有名女優からの慰問文や写真を見せても
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