ゴーヤを一日に5本摂取した日「あぁ麗しの仙台生活」なんていってた時期から、もう半年あまりが過ぎようとしている。
今日は、『哀愁的東京』(重松清)を手にしている。
過去には戻りたくないが、ふと懐かしさを感じたい…そんな雰囲気が一話目には溢れてる。
昔を懐かしむのが大人なら、僕はまだまだ大人にはなれない。なぜなら、昔に戻れるなら戻りたいからだ。
そんな、大人の小説を手に、僕は夕暮れの街へと歩き出した。
実家に帰ってきて半年、ある種の原点へと引き戻されたのか、それとも、本能的に戻ってきたのか解らない。
かつての記憶と共に、商店街を抜ける。
未だに変わらない町並みに、驚きを感じるが、やはり時の流れを感ざるを得ない。
未だにある店、面影しかない店、もうそこには何があったか思い出せない場所、真新しい建物。
時間の流れは均一ではないのではないかという錯覚にも陥る。
なんだろう、この感覚は、全てが縁なのか?
9年前だったろうか、8年前だったろうか、まぁ、10年前といっておけばいいだろう。この約10年前に、川崎駅前の居酒屋で、僕はかつての同級生とばったり出くわした。
二十歳の頃である。
僕は大学生で、彼は居酒屋の店員だった。こんなのは割にどこでもある風景かも知れない。「優等生だった彼が、居酒屋なんかでバイトしてる」と思っ
たものだった。僕と彼とがあったのは、中学卒業以来だった。僕が知っているのは、中学の彼である。それ以降は知らない。彼もそうだろう。そして、彼は親の
居酒屋を継ぐのだということを知った。「みんな、色々あるんだなぁ」なんて、僕にとってはまさに他人事だった。
賑わう店内の雑音を背に、「そのうち飲みに行くよ」約束をした。
そして、僕にも転機が訪れる。
一人暮らし、仙台へ、インドへ、実家へ。
9年が過ぎてしまった。
なんだか知らないが、就職もした。
あのときまさに他人事だったのだが、僕にも色々あった。
あのときの約束は、記憶の片隅に追いやられていた。
しかし、人というものは、故郷に戻ってくると、昔を確かめてみたくなるのだろうか。
建て替えられたと聞いた母校の中学を通るように、わざわざ買い物に行ったり。散歩をしてみたり。
20年も生きていた土地である。一番知っていると思っても、7年は長い。変化しないはずがない。
もちろん僕にも変化はあったろう。しかし僕自身は、今の僕しか解らない。あれから変わったのか、それとも変わらないのかなんていうのは、僕にだって解らない。
川崎駅前も随分変わった。
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