〝新価値〟の創造についてオスカーワイルドは、ロンドンの霧は詩人がこれを言葉に表現したときに、初めて存在に入ったと語っているが、これは、詩人が言葉にした後に霧が存在するようになったという意味ではない。
霧は、はじめからロンドンに存在していたのである。存在していても、言葉にして表現しなければ、人々の認識に入ることがなかったのである。
私たちがコトバを通して「表現活動」をする場合、大きく分けて二つのタイプがあるように思う。
一つのタイプは、広く巷間に出回って、世の通念となっている情報によって組み立てられた表現である。
もう一つのタイプは、既に存在しているにもかかわらず、コトバによって表現されないために、ほとんどの人が気が付かないで見落としている情報。これは団体や組織の伝統や、風土に深く溶け込んだ文化、詩人が詠んだロンドンの霧のような自然の風物、あるいは或る人物の生き様など、人々の意識に上ることなく埋もれている概念を、コトバとして表現する場合である。
前者には、さしたる魅力や発見はない。しかし後者には、多くの人が魅力を感じたり、ことによれば世の中を変えてしまうほどの力が宿っているように思われる。
しかし、後者のスタイルでコトバや作品を表現するためには、常人が容易に見つけることのない鉱脈を発見して、それをさらに精錬して作品を生み出すような、尋常ならざる努力が要るのではないだろうか。
しかし、そのような努力を通して紡ぎ出されたコトバ(や芸術)は、〝新価値〟となって世の中に迎えられ、新たな常識として定着する。
「日時計主義」のもたらす、真のインパクトは、この〝新価値〟を創造することである。
そのためには、表層の意識に上る世の通念を超えて、意識の深層へと深く穿ち入らなければならない。
そこには、未だコトバとして表現されることのなかった、ある人物の生き方や、社会や地域の伝統、それぞれの風土に溶け込んだ文化、自然の風物などが、無尽蔵の鉱脈として、私たちに発見されるのを待っているのである。
鉱脈を見出したら、それを深く観察し、掘り出し、精錬して、コトバや作品として紡ぎ上げることである。
〝新価値〟の創造とは、私たちがどれだけ世の伝統や常識に深く棹さして、さらにその根源にある「真・善・美」の世界を内なる規範として生きているか、その人生経験そのものが、各自の作品となって顕れるのではないだろうか。
久都間 繁
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