我が芸術論:本論「おわび」
昨年(2005年)の秋から書き始めた我が芸術論、演劇論の入力原稿が、わたしの操作ミスですべて消えてしまった。それに伴って再度原稿を書き始める。半年の遅れになってしまった。自分の注意の無さが情けない。まあ、いつまでも自分を責めても始まらないので、この辺で忘れることにする。わたしの友人の言葉を思い出す:人生は、短いようで長いものだと。
また、再度原稿を書くことは、最初に書いたときより、今は多少考えることが増えたので、少しはよい内容が書けるのではないかとひそかに自分に期待しています。
Prelude
この文章を書き始めた季節は秋であり、よく世間では『読書の秋、芸術の秋』といわれていますが、なぜそのように言われているのかとわたしが考えますに、
『大気が澄み、空は高く、木の葉は色付き、また、夜の帳(とばり)がすっかり降りるころ、昼間のカーテンを押しのけて無数の星々が天蓋に輝き出します。
なんと澄んだ透明な自然の静けさを感じることか』
その言葉がわかるような気がします。
ところで、何か芸術というか、演劇というか、自分の人生の途中でわたしなりの考えを残したいと思い、拙い文章を書き留めることにしました。そうすることは、自分で、それらのことについて、整理ができると思ったからです。
芸術にしろ、演劇にしろ、この得体の知れない現象を考える自体馬鹿げているかも知れない。大体が目の前に見えないものを、どうやってあるもの(実体=Entity)として具現化できるのであろうか。確かに、芸術には、目に見えるもの(visible)として、建築・彫刻・絵画等がある。その論理では、visibleなものと反対ではinvisible,つまり目に見えないものとしては、演劇・音楽等が取り上げることができるかもしれない。私が言いたいのは、それらは、皮相的な現象でありもっと内面的なうちに秘めたことを考えるのです。目に見えるものでも見えないものでもそれらは、誤解を生みかねないものであり創造主である作者の意図することとはかけ離れて理解される危険性があります。特に作者の同時代の人ならば、作者から直接見聞して正しい解釈が成り立つかもしれないが、作者の死後の後世の人が、それらの作品を理解するには、間接的に資料から推察するしか方法がなく、間違った解釈がなされる可能性が大きいのです。それもまた、芸術へのアプローチといえるかもしれませんが。なぜならば、真の芸術とは、作者の体を借りて創造させているからであり、もともと混沌としたもので、山にかかった霞のもののようなものに思われるのです。以上からいえることは、それぞれの人々が、自分らの感覚に基づいて解釈(感じる)をしてよいもののように感じるのです。
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