ママ/パパ症候群

会社を辞めて自宅で仕事ができるようになったのをいいことに、音楽を聴きながら作業している。ただし、好きな音楽をかけると気を取られて効率が下がるため、もっぱら聴くのはラジオだ。毒にも薬にもならない曲が流れ、リスナーからのどうでもよい手紙などをDJが読むだけなので、意識は放送内容に向かない。おもしろいことに、無音の状態よりもかえって集中できる。

ところが、意識しないはずの手紙にときおり引っかかる。リスナーはラジオ・ネームなどと一種の匿名で手紙を出すわけだが、「○○ママ」「××パパ」と自称する聴取者がかなりの数いるのだ。ラジオで気づいてから注意をしてみたら、テレビでもWebの掲示板でも、どこでも、自称ママ/パパが大勢いるではないか。

ママ、パパという表現は、原点となる人物から相対的に人を示すために使うものだ。したがって、この表現を使う時、主題はあくまでも原点の人物にあるはず。しかし、この表現を自称するとは一体どういう意識が働いているのだろう。なぜ自分の位置を絶対的なものではなく、相対的なものとして表現するのだろう。

足が速い/遅い、背が高い/低い、暗算が速い/遅いといったように、特定の次元だけに絞れば人間を比較することはできる。これが個性や性格、総合的な能力ということになると、他人との比較など簡単にはできない。ある人物を描写するには、絶対的に表す以外の方法はない。ところが、学校教育の弊害か、自分の位置というものを相対的に表現しようという傾向があるように思える。○○から見て△△の自分、××に属している自分、と自己紹介するのもそのせいだろうか。

自分は自分に過ぎない。それなのに、他人との相対関係で自分を示している。原点がなくなったら、自分の存在はどうなるのだろうか。原点が子供であれば、子離れができない親になるだろう。子供に入れ込む親の姿を見ていると、自称ママ/パパの姿が見える。自己実現したいならば自分を高めればよい。子供を利用するのはやめよう。子供には躾をきちんとし、場を与えてやるだけで十分である。自分ができなかったことを、子供に強いるのはやめよう。

自分に自信がないことも、相対表現をする原因の1つかもしれない。人間は誰でも個性的なのだから、原点に頼らずに自分を表現しよう。人と比べて劣っているからどうだと言うのだ。比較する次元を変えれば、誰だって良いところはあるし、個性豊かなはずだ。

自称ママ/パパたちが、「バカボンのパパ」くらいの個性を発揮する日は来るのだろうか。

2009年8月27日

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日記・コラム・つぶやき
2007/10/19



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